今年の春から、募集がはじまっていた 「音」や「動画」の登録商標。
その第一弾が発表になりましたよ、というニュース。
その時の応募点数一覧はここに。
「ラッパのマークの正露丸のテーマ」
や
「おーいお茶」など、
聞けばすぐ思い浮かぶものばかり。
提出方法もおもしろく、
「はじめてのアコム」や「三井のリハウス」
は楽譜で提出しているけれど、
音程のないものは、
「『おーい お茶』と聞こえる音声で、全体で4秒」
とか、
「「ぴよぴよ」のというひよこの声に「エステー」がかぶる」
などという提出方法も。
音や動画を「文書」というフォーマットに落とすのに苦労している様子が見受けられる。
今後こういった商標登録がさかんになると、あえて、
パブリックドメインにして、
企業ジングルを一人歩きさせようという動きもでるかもしれませんね。
「やま〜だでんき♫」のメロディを曲の中に入れる
アーティストをスポンサードしてみたりとか。。。だめか。
2015年10月27日火曜日
2015年10月19日月曜日
ペリー来航で西洋音楽に触れた日本人
横浜開港記念館の「その音、奇妙なり」に足を運ぶ。
ペリー来航時の音楽の様子についてとても興味深い資料がたくさんある展示だった。
ここから先は、音楽と歴史に興味が有る人にだけの話。
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日本人がはじめて西洋音楽に触れたのがこのころ。
ペリーの船に乗ってた楽隊が横浜や、久里浜、下田などで、演奏をした記録が残っている。
曲目はオースザンナとかのフォスターあたりではないかと推測されているのだけど、ペリーがきたのが1853年で、フォスターが活動を開始したのも1845年くらいからだから、ちょうど、アメリカ本国で流行っていた頃なんだろう。
それ以外にはアルプス一万尺(ヤンキー・ドゥードゥル)やフィリップ・フィル作曲の大統領行進曲、アメリカ国家などを演奏した記録が残っている。
しかし、当時のペリー来航の絵は残っているが、日本人画家には楽器の知識もなにもないから、楽団らしき人が描かれていても、管楽器の菅の部分なんてぐちゃぐちゃになっていて、ホルンだか、トロンボーンだか、コルネットだか、トランペットだか、さっぱり区別がつかない。
なんだか怪しげな、かたつむり状の管楽器が描かれているだけである。
で、当時の日本人が西洋音楽をどう受け止めたかというと、このころ日本にいたモース(大森貝塚とか見つけた人)の手記によれば
「日本人は音楽をちっともわかってないのである。
彼らはいつも我々の音楽を、『なんで同時にこんなにギャーギャーたくさん音がなるのか、なんで急に止まったり、走ったりするのか』、と不思議がっている。
だいたい歌を歌わせても、ハモりができなくて、全員で同じ音を歌うし。
日本人って、そもそも音楽センスないんじゃねーか。」(意訳)
という記録を残している。
ところが、それからしばらくすると、
あっというまに見よう見まねで、日本人の楽団が育ち、日本人は西洋音楽をものにしてしまったらしく、
(明治になって数年頃にはすでにワーグナーやベートーベンなんかの鑑賞会も行われていたようです)
その数年後モースは
「ごめん、やっぱこないだのなし。
すでに立派に演奏できてるし、日本人のセンスの問題じゃないわ。
単に練習不足だっただけみたい。」(意訳)
と記録している。
で、その後、鹿鳴館だの音楽取調掛だのもあって、
その後の西洋音楽は、あっというまに日本人の基礎教養となったしだい。
よく日本人は他国の文化を取り入れて、自分のものにしてしまうってよく言われるけど音楽もまさにそうだったようで。
資料も少なかっただろうし、大変だったんだろうな〜、と先人の苦労もいろいろしのばれるのです。
2015年10月11日日曜日
お金(という概念)はピークを超えてしまった??

「お金(という概念)はピークを超えてしまった??」
かどうか、というお話。
前のポストで、
「生活寿命(労働寿命)が長くなる一方で、労働技術(スキル)の寿命は短くなっている」。
と、のべたけれど。
どんな物事にも流行り廃りがあって、ある一定のところを越えるとあとは収束していく。
そういう意味では、お金という概念はピークを超えたのではないだろうか。
- 食べ物や、寝床、衣食などに使う最低限のお金
- 金持ちが、贅沢品につかうお金
- ビジネスに対して動くお金
- 国家間で動くお金
それぞれが圧倒的に利用される単位が違うのに、これらすべてが、同じものとして兌換可能というのは よく考えると実は不思議で不便な概念かもしれませんん。
そもそもお金と言うものが多くの人を幸せにしているわけではない、というところに行き着くと、
(現状はある程度幸せに寄与していると思うけれど、格差が進むとどうなるかわからない)
お金に換わる、もしくは、お金の一部を置き換える評価基軸が必要と、されるはずです。
そして、ふと見回してみると、 NPOや、フェアトレード、物々交換、ボランティア型サービス(欧米のwebサービスに多いです) そういった試みは実にたくさんやられている。
この疑問は、おそらく、近い将来、単純労働の労働のロボット化、衣食住最低限のものが、保証されるような社会ができれば、よりクローズアップされることになるでしょう。
その時、人類がより幸福な形で、お金からの脱却ができることを期待しています。
生活寿命(労働寿命)が長くなるが、労働技術(スキル)の寿命は短くなっている
現代での流行り廃り、システムの移り変わりはあまりに早すぎる。
自分は音楽業界に10年いた。
その例で言うと、音楽業界の移り変わりに対して、ミュージシャンの生活寿命はあまりに長い。
働くべき年齢の時ずっと、第一線に立てる人は、ほとんどいない。
それはこの業界が斜陽だから、というのももちろんあり、10年かけて、一気に半減したんだから仕方ない、というのはその通りだが、最近はそういう現象は音楽のみならず、ゲームや出版のエンタメにもメディアにも、テクノロジーにも保険にも食品にもあらゆる世界で見られる。
同じようなため息をついている人も多いだろう。
これは人間の
「生活寿命(労働寿命)が長くなる一方で、労働技術(スキル)の寿命は短くなっている」
ということに尽きる。
一生、たとえば、20から65まで、なにかの一つの職業について終わるということはあまりない、というかほぼ不可能になりつつある。
これに対応するには、
- 「ひたすら学習効率をよくする。」
- 「とにかくなにか突き抜ける。」
- 「スキルではなく、人間的な評価・名声を高める」
- 「ゲームのルールを壊して、リスクをとれる」
のパターンがある。
1は 「ゲームのルールをこわさずにゲームの中で勝負する」、 いわゆる学歴エリートみたいな人に向いている。
2,3はスポーツ選手や政治家・実業家のような、天性の才能のようなものを必要とする。
そして4こそが、まさにスキルの陳腐化を早くして、多くの人が、困る原因を作る犯人でもある。
世の中を前に進める力でありながらも、混乱させる存在でもある。
ここは学歴エリートみたいな人は適さず、地頭がよくかつ乱暴な人がいいだろう。
それぞれの世界で成功する人、しない人がいるけれど、なんだかんだ言って、生き方は、この1-4に収束していくのではないか。
少なくとも私たちは
「生活寿命(労働寿命)が長くなる一方で、労働技術(スキル)の寿命は短くなっている」
を念頭に置いて、21世紀を生きる必要があります。
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